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憲法記念日に思う(自由と民主主義の日本国憲法施行70周年) [諸事所感]

日本国憲法前文の画像

- The Constitution of Japan preamble -

Today is the 70th anniversary of the Constitution of Japan.
We,Japanese act according to this constitution.


 今日は、父の命日です。父は、第二次大戦で最も悲惨な戦いであるインパール作戦に兵隊として、国のために戦争に従事しました。その父の世代が、国の為に命を懸け、また今日の日本の繁栄の礎を築きました。奇しくも今日は、自由と民主主義の平和憲法である日本国憲法施行70周年の憲法記念日です。今日は、現在の平和国家日本の基となっている現日本国憲法について、改めて考えています。画像は、日本国憲法の前文です。

 今から70年前の1947(昭和22)年5月3日、「日本国憲法」が施行されました。第二次世界大戦後に、明治憲法からGHQ主導の「自由と民主主義」の日本国憲法となりました。第二次大戦後、困窮していた日本国民に物資を支援し、自由と民主主義をもたらしていただいた米国に感謝しています。本日の新聞では、日本国憲法施行70周年を迎え、安倍首相のメッセージ(憲法改正への決意)が一面に掲載されていました。

<憲法とは何か>
 憲法とは、立憲主義に基づく法治国家である近代国家での憲法は、権力による横暴(悪政・悪法)から国民を守るための「国民の権利」を規定するものであります。日本国憲法は三権分立の原則に基づいて、権力の横暴から国民を守る仕組みとなっています。また、憲法改正については、改正項目毎に国民の信を問うのが本来であり、諸外国では必要の都度改正されているようです。


<現在の日本国憲法制定の経緯>
 現在の日本国憲法は、1945年10月4日にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部 )の「自由の指令」により、マッカーサー元帥が近衛文麿に憲法改正を示唆し、「憲法の自由主義化」により憲法改正する運びとなりました。日本が提出した憲法改正要綱は、「自由と民主主義の文書として、最高司令官が受け容れることは全く不可能」とのことで、GHQ草案に沿って憲法改正方針を決定し、日本案を作成した。1946年(昭和23)年11月3日に日本国憲法を公布し、半年間の公布期間を経て1947年5月3日に日本国憲法が施行されました。

<憲法記念日について>
 また、1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布された11月3日は、明治天皇の誕生日である「明治節」でもあり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、「文化の日」となりました。また、施行された5月3日が「憲法記念日」として共に国民の祝日となっています。この時期の毎年4月29日(昭和の日)及び11月3日(文化の日)付けで勲章・褒賞が有ります。

<安倍首相のメッセージから感じた事>
 「自衛隊を合憲化するのが、我々世代の使命であり、そのために憲法改正が必要である」旨の安倍首相メッセージが、掲載されていました。安倍首相が同盟国と戦争に参加する道を開いて、多くの憲法学者から違憲を指摘されながら、合憲であると言う事をおっしゃり、国民の理解が進むとの事でした。安倍首相は、本日のメッセージからすると、合憲化を目指しているのは、現在違憲状態であり、その違憲状態を解消するには憲法改正が必要であるとの認識のようです。
 安倍首相は、平然と当時の発言と異なる見解を示されていますが、日本の首相として信頼できるのでしょうか。日本は今、共謀罪を国会審議している最中ですが、これも違憲を疑われています。私は、安倍首相があまりにも強引な手法で、独裁化しようとしている様に感じています。
 アメリカでは、トランプ大統領令について、州が提訴して裁判所が司法判断を下しております。日本でも、三権分立の原則に則り、最高裁判所が違憲か合憲かを判断するべきでしょう。三権分立が機能しないならば、現憲法上に違憲審査制を追加するのが、先決のようです。

<日本国憲法改正草案について>
自由民主党の日本国憲法改正草案は、本来の憲法改正の枠を超えた、まさしく新憲法草案となっています。その内容を見ますと、次の項目に分類できます。憲法改正は、項目毎に国民に信を問って頂きたいものです。

-- 憲法改正項目 --
1.国旗、及び国歌を明確に定める。
2.戦争の放棄による平和希求から、国防軍による安全保障への転換
3.個人情報の不法取得の禁止
4.宗教団体の政治上の権力行使禁止の削除
5.公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは認められない。(政治活動の制限、特にデモの規制が目的と見られる)
6.家族の助け合いを新設
7.「文化的生活権」と見ることのできる第二十五条を「生存権等」に定義
8.在外国民の保護の新設(軍隊の派遣による戦争の危険性を伴う)
9.犯罪被害者等の保護の新設
10.一票の格差を容認する
11.政党の存在について、公正の確保および健全な発展に努める。(政党交付金)
12.内閣が国の公務員を管理・支配する(第73条)
13.財政の健全性の確保
14.私立の慈善・教育・博愛の事業に公金および公の財産を支出できる。
15.地方自治について、基礎地方自治体及びこれを包括する広域地方自治体とし、その財政を明記する。(道州制)
16.地方自治組織によって異なる定めの、特定の地方自治体の住民のみ義務を課し、権利を制限する特別法をその地方自治体の住民投票の過半数で立法化できる。(地方自治特別法)
17.緊急事態の追加(内閣総理大臣が特に必要であると認めるときは、閣議にかけて緊急事態の宣言を発する)。
  この場合、基本的人権に関する規定は、最大限に尊重される。緊急事態に於いて基本的人権は、憲法上の最高法規では無くなる。
18.憲法改正の要件緩和。衆参各議員の総議員の3分の2以上から過半数に、国民投票の過半数から有効投票の過半数へ。


国民として受け入れられない項目を含む新憲法には、NO!

憲法改正は項目毎に、国民に信を問うべし!


【参考資料】
*1 日本国憲法の誕生[国立国会図書館]
*2 日本国憲法改正草案[自民党 憲法改正推進本部]
*3 きょうはなぜ「文化」の日? 朝日新聞デジタル





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王様を欲しがった蛙 [閑話]

話しはそれますが、ここでイソップ物語の「王様を欲しがった蛙」という蛙の国の寓話を紹介します。

 蛙たちは自分で自分を律するのに飽きてしまいました。あまりに自由がありすぎたので甘えてだめになってしまい、何もしないで座り、けだるそうにゲコゲコ鳴くだけでした。そこで、王様の力を受け入れ、取り締まられているとわかるふうに統制してくれる政治を望みました私たちには内容の乏しい政府は要りません、と蛙たちは断言しました。そこで、ジュピターに王様を下さいと使者を送りました。

 ジュピターは蛙たちが何と単純で愚かな生き物かと思いましたが、蛙たちをおとなしくさせ、王様がいると思わせるために大きな丸太を落としてやりました。丸太は大きな水音を立てて水に落ちました。蛙たちは、新しい王様が恐ろしい巨人だと思い、葦や草の間に隠れました。しかし、じきに丸太王様はおとなしく穏やかなのがわかりました。そして、まもなく若い方の蛙たちは丸太王様を飛び込み台に使いました。一方、年配の方の蛙たちは丸太王様を会合場所にして集まり、大声でジュピターにその政府について苦情を言いました。

 神々の支配者は、蛙たちに教訓を与えるために、蛙国の王様に今度は鶴を送りこみました。すると鶴は前の丸太王様とはとても違った王様だとわかりました。王様は右や左の可哀そうな蛙たちを貪り食ってしまったのです蛙たちはすぐに自分たちがどんなに馬鹿だったかわかりました。それで、死者を悼んで鳴きながら、ジュピターに、自分たちが全滅するまえに残酷な暴君をひきとってください、とお願いしました。

 「なんだい!」とジュピターは叫びました。「まだ満足しないのか?お前たちに欲しがったものをやったぞ、だから災難は身から出たさびだ。」


Be sure you can better your condition before you seek to change. 変化を求める前に今の状態を良くできるか確かめなさい

出典:「She-cat 英語短編の翻訳サイト」


賞金首 [私の従軍記(インパール)]

 賞金首などと何やらテレビドラマのタイトルの様でおこがましいが

 昭和十九年八月、インパールより撤退した聯隊は、チンドイン河上流のモークの守備に着いたが、温井聯隊長が敵機の銃撃により、両足の大腿部貫通の重傷を受け、モーライクの野戦病院に入院したので、第一大隊長の久保正雄少佐が、聯隊長代理となり連隊を指揮、モークとモーライクの中間点のトンビンに聯隊本部を置き、第一機関銃中隊長の長谷川大尉が第一大隊長代理となり、モークの防備に着いた。

 部隊の糧株は(主に米であった)船舶工兵隊が後方のカレワからトンビン迄、夜間小舟で運んで呉れたが、 船舶工兵隊も人員不足で輸送が思うようで無く、聯隊でモーライクに糧株集積所を設置する事になり、経理室に金柩監視に来て居た兵四名を連れて、曹長の命に寄り私が出された。

 モーライクも毎日敵機に銃爆撃されるので、渡河点付近は満足な家は一軒も無くなり、部落外れの空き家を見つけて集積所にしたが、夜遅く着いた米は其まま、渡河点に野積みにして置いて、翌朝早く集積所に運んだ。

 或る朝、渡河点に行くと昨夜着いた米(三〇㎏入)が一〇袋足りない。数量は毎夜、私が確認するので間違いない。

 あっ、タコーだと直感した、タコーとは日本の脇差位の山刀(ビルマ人は此の刀をダーと言った)を持った武装強盗団で、日本軍の旗色が悪くなって来てから方々に出没しているから気を付ける様にと、二・三日前、青木憲兵曹長に注意されたばかりだった。

 此処にも来たのか。チキショウ、大事な米を奴等に二度と盗られてたまるか。「よし今夜から夜警だぞ」と言うと、兵隊達の顔色が変わった。「戦闘で死ぬなら本望だが、タコーにやられたら」とブツブツ言うので「それでは、昼間はお前等四人で監視しろ。夜は俺一人でやる」と大見栄を切ったが、内心はビクビクだった。

 先日、小川町の伊藤雄一郎さんが私宅に見えられた。氏は長年、小川町の町会議員や収入役を務められ、退職された今尚、地域社会のため、尽力されている方だが、当時、陸軍中尉で乗馬小隊長だったので昔話となり、「あんたの豪胆なのには、驚いたよ。モーライクの渡河点で、あの薄暗い処に一人で警備して居たのには、連の兵隊も大胆な人も居るもんですねと、たまげて居たよ」と言われたが、私は決して豪胆でも大胆でも無い。いたって肝っ玉は小さく、憶病である。あの時は任務の責任上、やせ我慢もいいとこだった。

 其夜から、薄暗いカンテラをぶら下げた竹竿を岸辺に立てて、一人で渡河点に頑張った。午後九時頃までは、各隊の連絡兵の出入りが有るが、後は誰も来ない。此の頃は、野犬も居なかった。もっとも、野大は見つけ次第、食糧にされるので姿を現さなくなった。

 九時に灯りを消して、野積みにした米袋の間に天幕を敷いて柏餅になり、小銃に弾丸を五発装填して、安全装置を掛け、懐に抱く様にして地面に横になった。 朝迄眠らないつもりだったが、何時の間にかウトウトしたらしい。

 「カサッ、カサッ」枯葉を踏む音でハッと目が覚めた。長い間の戦場暮らしで、体は獣に近く敏感になって居た。昨夜味をしめたので、今夜も又来たらしい。良し、出来るだけ近くに引き付けてからと、じっと我慢をした。此の夜は、真っ暗闇で何も見えなかったが、足音からして七・八人は居た。先頭の奴が米袋に手を掛けた気配なので、そっと体を起こしたら極度の緊張の為か、手足の関節が「ポキ、ポキッ」と音を立てた。

 奴等も異常を感じたらしく、動きが上まった。後の連中は、前が止まったので不番に思って小声で「バ― レバ―レ」(ビルマ語でどうした)と聞いて居る。 よし、今だ。奴等を殺すのが目的ではない。驚かして二度と盗みにに来なければ良いので、安全装置を外すより早いか、奴等の頭上に一発ぶっ放した。

 普段は豆鉄砲などと言う人も居たが、さすが三八式歩兵銃様だった。この銃は、兵隊の銃を借りたのだったが、しいんとした真夜中の銃声は、バァンと今迄に聞いた事も無い様な物凄い音がして、銃口から火焔が三〇糎も吹き出した。これには撃った私も驚いたが、強盗達はびっくり仰天して、何やら訳の分からない叫び高を上げ乍ら、米袋をほっぽり出して、其処等にぶつかり乍ら、我先に逃げ去った。彼らは二度と現れなかった。

 兵達四人は、テッケ(椰子の葉)の屋根では有ったが、床のある民家に寝たが、払は一人で渡河点の傍らの叢に米袋を積重ね、其の間に入って、可原で捨って来た手頃な石を枕にして、携帯天幕にくるまってのごろ寝であった。

 しかし、此の石の枕だけは項けなかった。枕に触れた頭の部分がうっ血したらしく、翌朝触るとと痛かったので一夜で敬遠した。次の夜から空の麻袋を丸めて眈にしたが、これはミヤージカウンデ(ビルマ語で大変良い)だった。

 曇天の日ばかりではない。晴天の日の夜空は、満天 の星が煌めき、実に美しかった。寝ている顔の上に、今にも降って釆る様な錯覚をする程だった。私は星座は分からない。精々北斗七星と北極星が分かる程度で、南方に来て初めて南十字星を知った。此の星は、他の星より一際輝く様な明るい、美しい星だった。

 南十字星は、内地の空では見えないのかな、などと思ったら、心は遠く故郷に翔んで、庭の井戸で跳ね釣瓶で水を汲んでいるお袋の姿が瞼に浮かび、胸にジーンと来た。内地を出てからもう五年になる。親父や、兄弟達も元気で居るかな。死ぬ前に一度帰りたいなあ、誰か故郷を思わざる。

 敵の浸透が意外に早く、一大隊の守備しているモークが激戦場となり、第一大隊長代理の長谷川大尉が戦死をした。

 此処、モーライクの糧秣集積所も近く撤収の気配を感じたので、或る日、青木憲兵曹長が来た時、夕食を共にした。青木曹長は私より二年次先輩だが、憲兵には惜しい人だった。私は此の人とは階級抜きの友達交際をさせて貰った。

 色々とお世話になった礼を言うと、彼はちょっと間を置いて、沈んだ声で「あんた等はいいなあ、撤退が出来て」としみじみ言った。「俺は、全部隊が居なくなり、一人になっても此の地で残置諜者として諜報活動をする様、命令を受けている。密偵はビルマ人なので、何時寝首をかかれるかわからないし」と寂しそうな顔をしたが、私には慰める言葉が無かった。

 彼は、「首と言へば、あんたの首には賞金が付い居たんだよ。俺は陰乍ら護衛していたんだ」と言われてびっくりした。

 タコーの親分が、私が居ては盗みが出来ないので、私の首に賞金を付けたとの事だった。知らぬが仏とは良く言ったもので、そんな危険な事は露知らず、村民達が戦禍を避け、非難しているジャングルの中迄も一人で、人夫集めに行ったりして居たが、良くやられなかったものだ。話を聞いて、今頃背筋が寒くなった。早く知らせて呉れたら用心したのにと思ったが、私が何時も小銃を持ち、手溜弾を二個腰に付けていたので奴等も山刀位では、手が出せなかったらしい。

 それにしても、聯隊長にも付かない賞金が付いたとは、俺も少しは大物かなと低い鼻を少しばかり高くした。 しかし、聯隊広しといえど賞金首は、私一人ではないかな。

 青木さんは故郷が何処か、ついぞ聞き損なったが、無事に帰国されたかな。お会いしたい人で有る。



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ランゴールより撤退 [私の従軍記(インパール)]

 昭和十九年四月、インパール戦の最中、北支の徐州で着任以来、ビルマ進行作戦、アキャプの三十一号作戦等、聯隊長として聯隊を指揮されていた宮脇幸助大佐が残念にも病に倒れ、野戦病院に入院されたが、思わしく無く、ビルマの兵站病院に後送になった。

 聯隊は聯隊長がいなくなったので俄かに中支戦線で混成大隊長をしていた温井親光中佐が聯隊長心得とし て六月十二日テグノパールの聯隊本部に着任した。程なく大佐に進級、正式に四代目の歩兵第二百十三聯隊長となった。

 前任の宮脇聯隊長は緻密で優しい人、だったが此の人は豪傑タイプて、原因は何か知らないが、着任草々、 本部の将校四・五人がビンタをやられているのを目撃してびっくりした。私は軍隊生活五年になり、飯田、河村、宮脇と三代の聯隊長を送ったが聯隊長が将校にビンタをするのを始めて見た。

 これは凄い人が聯隊長になった。此の調子では兵隊の命など虫けら位にしか思わないぞと心配した.。

 聯隊は夜間、ランゴールに進出したが夜明けと共に敵機の銃爆撃と火砲(速射砲・迫撃砲・重砲)の猛砲撃を受けた。何しろ飛行機の離着陸が肉眼で見える飛行場から飛び立つのだから、一日中、頭上に十機位の敵機がいて爆撃が終わると機銃掃射、弾丸がなくなると着陸、其の時に次の奴が上空に待って居てバトンタッチ、よく弾丸が続くと思う程、間断のない攻撃をかけてきた。

 凄かったな、こんな戦いは今迄に例がなかった。目標に爆弾を投下するのでは無い、山一面に爆弾を散撒のである。

 ランゴールに着いて僅か三日で兵力の大半を失い、部隊としての戦闘能力が無くなり、聯隊の攻撃目標、敵の構治基地、パレルを指呼の間に見乍ら残念にも撤退となった。

 撤退命令が出た時、正直な話ホッとした。

 聯隊長不在の間に、後方に居る軍の若い参謀から無茶な攻撃命令を受け、酷い目に会ったので、聯隊長に もしものことが有ったら大変と、心配した本部の幹部が聯隊長に先に退る様にと頼んだが聯隊長は負傷者全員を先に後送してから退ると言ったとの事、さすが聯隊長、いい事を言うなあと、私は聯隊長を見直Lた。難しい言葉で言うと、私は聯隊長への認識を新たにした。難しくも無いかな。

 戦死者は止むなく小指を切って埋葬した。

 夕方になり敵の攻撃が止んでから、本部医務室の位置に集合したが、私は下痢をして居たので、出発直前 になって腹が痛くなり、我慢出来ないので近くの竹藪に入って急いで用を足して来たが、患者隊は出発してしまった。

 祭部隊の負傷兵が二名残って居て、宮崎副官が「木村、この兵隊を護送して退って呉れ」と言った。これ は大変な事になった。こんなのを連れて歩くのなら担架を担いだ方がよっぽど良かったが、今となっては仕 方がない。

 私は経理なので小銃は持っていなかったので、二人の小銃を担いでやったが、小銃の重さは三八式(明冶三十八年製とか)は三・七五キロで二挺で八キロ近い、肩にめり込む様な重さだった。

 暗くなった荒野の中をクデクノーの山麓を目指して出発した。私達三人が患者隊の最後で、先に出発した人達は一人も見えない。腰位も茂っている雑草の中を先発隊が通った跡が草が寝ているのを目印に歩いたが、小川が有ったり、土手が有ったりして歩きづらかった。

 初年兵の一等兵は腕の負場だが、上寺兵は腰をやられたとの事で竹棒に槌って歩くのだが、草に足を取られ、何度も転んだ。

 私は下痢が止まらず、医務室には何の薬も無く、大森衛生軍曹が消炭の粉が良いと言うので、炊飯の度に消炭の粉を作って置いて、飲んでいた半病人なので体力も余り無く、この兵隊を助け様として私も一緒に転んだ。「チョット、休憩するか」草の上に仰向けになり、空を眺めると雨季の最中では有るが幸いにして、四・五日雨がなく、(雨が降っていれば飛行機が飛ベないから、これ程の犠牲者は出なかったかも知れない)

 薄曇りで星がまばらに光っている。遠く、山の頂で一際輝いている星を見て、入営前、水戸市、下市一町 目の豊田レコード店で聞いた 『荒野の果てに日は落ちて 遥か瞬く一つ星 故郷遠く…』と流行歌の一節、美男歌手松平晃の美声を思い出した。

 豊田の店先には、いつも瀬戸物で造られた実物大の犬が首を傾けて居たが今でもいるかな

 此処で感傷に浸ってはいられない、「さあ出かけっか」と歩き出したが牛の歩みより遅い。なまじ休んだ為、余計疲れが出たらしい。これは困ったぞ、夜明け前にこの荒野を通過しなければ、間違い無く敵機の餌食だ。それからは心を鬼にして歩いた。初年兵は傷が痛いと泣き声で、何やら言うが関西弁なので私には半分も解らない。「もう直ぐだぞ、我慢しろよ」と宥めたり、賺したりしたが撤退方向を間違ったんだなどと言い出して、私の言う事を聞かないので「貴様それでも軍人か、少しは我慢しろ」と持っていった小銃で尻を一発殴り付けたら、おとなしくなぃった。

 私は軍隊に七年居たが、兵隊を殴ったのは後にも先にも、此の時だけで有ったが、いかなる理由が有るにしも患者を殴った事は私の非で誠に申しわけなかったと反省しております。

 何粁位歩いたか、分からなかったが明け方近く、やっとの思いでクデクノーに着、山合の師団衛生隊に患者を引き渡したが衛生兵に「どこを通って来たんですか」と言われたのを見ると皆より大分遅れたらしかった。

 さすがに上等兵は、古年兵らしく「お世話になりました、有難うご座いました」と礼を言ったが、初年兵は私に気合を入れられたのが面白くないらしく、一言も口を聞かない。私は、二人の小銃を一晩中担ぎ疲れて、くたくたで肩ばかりか背中迄も痛い。「元気で退れよ」と別れた。

 此の日の夜遅く、本隊(軍旗・聯隊長)も撤退してきたが、宮崎副官が経理室の体んでいる所に「木村はいるか」と大声で入って来たので、私はびっくりして「ハイ」と立ち上がると「オオッ、本村、無事だったか、良かった。てっきり捕虜になったと思って心配したぞ」と言った。

 今朝、本部と荒野を隔てた向いの山麓で激しい銃声がするので、宮崎副官と千葉大尉が双眼鏡で見ると、三人の日本兵か敵兵に銃剣を突きつけられ乍ら連行されるのが目撃されたので、一番最後に出発した木村達ではないかと皆で心配していたとの事だった。

 昨夜私達が荒野の中を撤退して来る時小川の処で休んで居た、祭部隊の四人の兵隊らしかった。あの時、私達と同行する際に勧めたのだが、彼らは楽な小道を選び向こうの山麓の方に退り、私達と別行動を取った。私の護送して来た患者も同じ祭部隊なので、向こうに行きたがったが、私達は担架隊が通った荒野を退がったのが良かった。

 捕虜にならなくて良かった。

 私はよくよく悪運が強かったらしい。



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チャモール(昭和十九年七月) [私の従軍記(インパール)]

 聯隊本部はクデクノーょり撤退し、チャモール付近に布陣した。付近の高地には住民の姿は全く無く、籾はおろか、ジャングル野菜も見当らなくなった。

 部隊に一頭だけ残っていた聯隊長の乗馬も馬糧が無くなり、日に日に痩せが目立つ様になったので、後方 に下げる事になり、両足を負傷した間中軍曹が此の馬に乗って退る事になった。

 「誰か付けて下さい。」と高野主計さんに頼んだが返事が無かった。前線では一兵でも欲しい時で有る。さすがの主計さんも返事が出来なかった。

 つい、二、三日前、将校が指の負傷で後方に退るのに当番兵を連れて行ったと聯隊長と聯隊副官がカンカンに怒った大声を聞いたばかりなので、部下思いの主計さんはさぞ辛かった事だろう、と私は高野主計さんの胸中を擦した。

 此の夜は、雨期には珍しい皓々たる月夜であった。経理室の人達が四、五名、道路上に出て見送ったが、孤影情然と言う形容詞は彼の為に作られたかと思う様な言葉で有った。馬がトコトコと歩む度に、ゆらゆらと上体が揺れていた。馬上の間中軍曹の姿が、今でも現々と目に浮かぶ、彼はモーレの野戦病院で死亡したと後日聞いたが、私達が命がけで助けたのに残念だった。



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ランゴール(間中軍曹の救出) [私の従軍記(インパール)]

 昭和十九年六月夜間、敵の最前線陣地のライマトルヒル側方を隠密に通り、後方のランゴールに進出した聯隊は、敵の補給基地、パレルを攻略すべく一中隊側方、三百メートル位の高地に出したので、本部(軍旗)の護衛隊が無くなったので、ランゴールこ到着すると俄かに本部各班(伝令・電報・兵器・経理・宣撫)より、兵を二・三名づつ抽出して、経理委員の飯野茂中尉(水戸市堀町)が小隊長と成り、一個小隊を編成したが、聯隊本部酒保係長の間中軍曹も連絡係下士官として参加した。

 飯野小隊が本部の前面に散開、守備について間もなく、夜明けと共に敵ゴルカ兵の一隊、四・五〇名が日本長が居るのを知らずガヤガヤ喋り乍ら、本部の居る山に登って来た。この山は稜線上、草木が一本も無い岩山で壕が掘れず難渋したが、地の利は我に有り獣道を這い上がって来る敵兵を上から狙い撃ちにした。

 小銃と手榴弾だけの寄せ集路小隊だったが、此の小隊か居て良かった。敵な忽ち、十毅名の犠牲者を出し、 山の中腹岩陰に退却した。無線ででも知らせたのか、間もなく、小山の様な重戦車が左手の丘の上に姿を現 し、山の頂上付近を目標に、ダダン、ダダンと戦車砲を撃ち出した。経理室の兵は戦車砲の第一弾が炸裂す るより早い位に稜線より少し下の大岩の陰に退避した。

 飯野小隊から伝令が一名這う様にやって来て、間中軍曹が両足をやられて敵斜面に落ちたのを救出してく れないかと言ったが誰も返事をする者が無い。此れは理もなかった。敵斜面では助けに行った者がやられる可能性が大きかった。

 経理室の最高指揮官の高野政喜主計大尉は部下思いの温厚篤実な人で有った。私は良い上官に恵まれた、幸せだったな、此の様な上官は滅多に居なかった。私は此の人の部下として四年余り一緒に生活させて頂いたが、私の様な出鱈目な兵隊でも只の一度も怒られた事は無かった。所謂出来た人だった。気持の優しい人なので、危険な任務を誰、それ、行って呉れと指命出来なかったらしい。

 仕方がない、俺が行くかと決心して「自分が行きます」と買って出た。主計さんはホッとしたらしく、気を付けて行って来て呉れと言われた。少し離れた岩陰にいた兵達の処に行き、間中軍曹の救出の事を話し、俺と一緒に誰か行って呉れと言うと、「おぅ行くぞ」、「俺も行く」、と声がして、内原町の大高一男上等兵、八郷町の奥村友義上等兵、群馬県中里村の小林政治上等兵が出て呉れた。此の人達は私の同年兵で聯隊の最古参兵なので気強かったし、嬉しかった。

 急いで帯剣で竹を切って携帯天幕を縛り付けて、急造の担架を作った。早ければ早い程、危険が少ないと思ったので直ぐ出発した。

 山麓の切り立った屏風岩の様な崖の陰に三人を待機させて、私一人でそっと崖から顔だけ出して敵の方を 覗いて見ると、二百メートル位の至近距離に小山の様な重戦車が四両居て、必切りなしに本部の居る山の頂上付近を砲撃している。これは四人で行っては危険だ。咄瑳の判断で此処に居て呉れと二人を待機させて、私は一人で伝令に聞いた敵歩兵と戦車の中間位の一本松の所迄、這う様にして行った、幸い雑草が腰位迄も茂って居たので敵に見つからなかった。

 間中軍曹は高さが二米位の松の本に背を見せて、肩に小銃をあて、足を投げ出す様にして居た。「間中班長、救出に来たぞ元気だせよ」と小声で言うと「足をやられて歩けないから担架を此処に持って来て呉れ」と言った、「ェッ、何、言ってんだ、後を見て見ろ、見っかったらイチコロだぞ」間中軍曹は腰を少し浮かすようにして後を見て吃驚した百メートルと離れない所に小山の様な重戦車が四台も居たのだから、先程から此の戦車が間中軍曹の頭越しに本部の居る山をひっきりなしに猛砲撃して居るのが分からなかったらしい。 傷の痛みのせいだろう。

 私が間中軍曹の腋の下に肩を入れて左手で腰を抱え右手で小銃を持ってやり、二人で夢中で走った。戦車 の奴等も私たちを見つけたらしく、一台が砲身を下に向けて撃ち出した。目の前の戦車からの砲撃である。ダァン、バァンと発車音と砲弾の炸裂音が一緒だった。

 今迄、間中軍曹が休んでいた松の木が戦車の第一弾で吹き飛んだ。私達の逃げる跡々砲撃されたが何とか無事に崖の陰に転げ込んだ。敵の歩兵が、三・四十名、三百メートル位離れた山の斜面に取り付いて居たので味方を撃つ懸念が有り、機関銃を撃てなかったらしい。

 又、砲撃も一台の戦車だけだったので助かった。四両一度に砲撃されたら無事ではすまなかった。大高上等兵は、心配で崖の陰から一部始終を見て居たとの事で「木村班長、凄かったな、敵の真ん中を突破したのだから」と言ったが、逃げ道はあそこしかなかった。

 私達の脱出を待って居た様に山の斜面に取り付いて居た敵歩兵はバラバラと戦車の位置迄後退して来た。 戦車は砲だけで無く今度は機関銃も乱射し始めた。山の斜面を盲撃ちである。私達日本兵には羨ましい程の弾の無駄使いであった。いつの間にか上空には十数機の敵機が乱舞して居て、次から次にと急降下銃爆撃 を開始した。

 私達は運が良かった。後十分遅かったら間中軍曹の救出どころか、私も帰れなかった。此の時ばかりでなく、其の後も九死に一生という場面を何度も潜り抜けた事が有るが私はよくよく悪運が強かったらしい。

 それにしても両足をやられた間中軍曹は私と一緒によく走れたものだ、「人間は生死の瀬戸際の時、思いがけない力を発揮する」と言うが本当だった。しかし、彼はあの松の木迄どうやって辿りついたのだろう。此の事は、私の永い間の疑間である。戦後、五〇年過ちました。彼に再会出来る日も間近いと思います。会ったら、いの一番に聞きたいと思って居ります

 間中雅雄軍曹(猿島郡森戸村)は聯隊の糧林係長の和田修軍曹(水戸市新荘)と同じ幹部候補生で、同年 兵。入隊前は同じ茨城師範を卒業した同級生で、共に学校の先生をして居たとの事だった。二人ともさすが 先生だけあって、人格者だったが此の様な得がたい人材は軍隊では無く、別な使い道が有っただろうにと、 つくづく思った。勿体なかったな。



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伊藤山(四五六二高地) [私の従軍記(インパール)]

 我が聯隊の第二大隊が数度の夜襲の末、多大の議牲 を払い、漸く占領した山であるので、大隊長・伊藤新作少佐の姓をとって伊藤山と友車は呼んでいたが、雨 の中にどんよりと澱んだ様な死臭の山であった。

 敵は此の山に朝から晩迄よく弾丸が続くと思う程、間断ない砲撃を加へて来た、砲撃が一時止むと今度は 敵機の銃射と爆撃である。これに対し後方より補給のない我が軍は沈黙を守った。敵歩兵が攻撃して来た時 だけ応戦した。後方から一粒の米も送られて来ないので付近の山々に住むチン族の家を見つけては糧秣蒐集(聞こえは良いが、早い話掠奪である)も思う様でなくなった。仕方がないので各人の定量を籾一升、十日分 とした。

 籾一升を鉄兜に入れて棒で搗くと玄米が六・七合出来たが、十日間は、どんなにしても食いつなぎは出来な かった。そこらの雑草類、本の芽、若葉、名前を知らない茸等を入れて雑炊にしても無理であった。蛇、トカゲ爬虫類も見つけ次第食べた。

 日本軍に攻撃力が無くなったのを察知した敵は伊藤山に大攻勢をかけて来たので激しい攻防戦となり、陣 地では炊飯が出来ないので後方から食事を送る事になった。

 経理室は、テグノパールの道路上に、各人の携帯天幕を繋ぎ合わせて幕舎を作って居たが、下の谷川に下 りて飯盒で飯を炊き握り飯を作った。「経理室は食わなくても伊藤山だけは食わせろ」と、高野主計さんの言葉なので経理室で精一杯の努力をしたが、一食に小さな握り飯二個とジャングル野菜(雑草)の浮かんだ粉味噌汁だけだった。これと谷川の水を伊藤山に運んだ。

 各中隊の功績係の准尉さんが本部の位置に居たのでこの人達が交代で使投に出て呉れ経理室から下士官 一名が交代で指揮官として出たが、此の海千山千の使役兵は私達指揮官の言う事をちっとも聞いてくれないのには参った。集合場所に行くと「何だ、今日の指揮官は木村か」と始めから馬鹿にしたみたいな言い方をされた。

 テグノパールの曲がり角から伊藤山の方向に断崖の上に何十メートルか道路が露出していて、敵は朝から晩迄この道路上を数分間の間隔を置いて砲撃をしている。遥かライマトヒルの麓の辺りがピカッ、ピカッと光るとダ、ダァンと二発炸裂して、ややあってド・ドンと発射音が聞こえる。

 砲兵に聞くと高射砲との事で、日本軍の飛行機が姿を見せないので、道路遮断の目的で撃っているらしかったが口径が大きいらしく凄い炸裂音だった。数分間の間隔は弾丸を込めている時間らしく、その合間に二、三人づつ各個前進したが奴等が前に居た所なので弾着は正確で、此処は誰もが駆け足で通り抜けた。

 伊藤山の下に着くと准尉さん達は背負ってきた一斗缶に入った水や、握り飯を置いて帰りかけたので「ちょっと待ってください、大隊本部に連絡して来ますから」と言うと、「昨日は此処で良かったんだから良いんだ」と勝手に帰ってしまった。

 私は大隊本部の位置迄一人で登って行き、大隊副官に「握り飯を持って来ました」と報告すると、「昨日は山の下に黙って置いて行ったので腐って食えなかった、今日は罰として一線迄持って行け」と言われた。「チキショウ、昨日の指揮官は誰だ」と腹が立った。山の下には経理室の兵が三名居ただけだったので仕方なく四人で運んだ。

 大隊本部から最前線の壕迄は二百メートル位だったと思うが連日の砲爆撃で山の頂上付近は木が一本も無くなり、稜線の下は砕けて砂利の様になり、滑って危なくて歩けない。危険を承知で稜線上を歩いた。中隊の兵隊は「此処迄持って来てくれたのですか、有難う御座います」と礼を言った。

 使役兵の准尉さんが居れば一回で運べたのだが、勝手に帰ってしまったので仕方なく四人で往復した。最初は皆、姿勢を低くして静かに歩いたのだが、三回目には早く帰りたい一心で立ったまま駆け足になった。

 夜とは言っても、高い稜線上を何度も行ったり来たりしたので敵に発見されたらしい。やっと運び終わって帰りかけたら、パッと照明弾が上がって真昼のような明るさになり稜線上の四人の姿が浮かび上がったと同時に、シュル、シュル、バァンと迫撃砲と速射砲、重機関銃の猛射を受けた。

 ガガン、ババン、ダン、と各種砲弾の炸裂する中をビュビュンビツと前後左右に赤・青の機関銃の曳光弾が走る。最後尾を走っていた私は、ドカンと一発、至近弾を受け、横なぐりに丸太で顔面を殴り付けられた様な爆風で吹き飛ばされ、山の斜面を転がり乍ら滑り落ちた。途中で本の根にしがみ付いたら、戦死者の足だったので死体と一緒に下の道路上に折り重なって落っこちた。

 ハッと気が付いた。どの位の時間だか分からないが、私は気を失っていたらしい、先刻の物凄い重砲撃はい つの間にか止んで辺りはシーンと嘘の様に静かだ。ガアー、ガアーと凄い耳鳴りがして頭がガンガンする。

 顔の右反面が火の様に熱いが何処も負傷はしていない様だ。幸いと言っては申し訳ないが、戦死者の上に折り重なる様にして落ちたので、死体がクッションの役をしてくれたらしい。

 真っ暗で何中隊の誰か分からなかった死体の上から這い下りて、そっと歩き出す。歩ける、良かった。十米位歩いてハッと気が付いた。

 坂道を下っていた。此のまま行ったら敵陣だと慌てて回れ右をした。友軍の陣迄戻ると道路上に倒木やドラム缶が鹿砦の様になっていて、其の陰から「山」と言われたので「川」と答えたら、「誰か」と又誰可された。

 「経理室の本村だ、開けてくれ」「そっちは敵ですよ、もう少しで撃つ所だった」と言い乍ら障害物を開けてくれた。「良く合言葉を知っていましたね」と言われたが、当時の日本人なら忠臣蔵の大石良雄が打ち鳴らした山鹿流の陣太鼓や山と川との合言葉は、芝居や映画で誰でも知っていたので、とっさに出たのだった。
それにしても味方にやられなくて良かった。

 真っ暗な山肌から薄暗い道路上に出ると、私の姿を見つけて経理室の三人が駆け寄って来て、「木村班長 殿ですか、大丈夫ですか」と声を掛けて来た。「大丈夫だよ」と私が返事をすると、「良かった」と七中隊から勤務に来ていた大津勢進上等兵のしみじみとした声であった。然し此の時の衝撃で私の右耳は鼓模が切れて聴力を失った。

 大隊副官は谷和原村出身の大里元式中尉だったと後日聞いた。

 此の時一緒だった大津勢進上等兵は後日、ガドーにて中隊に帰り二十年五月イラワジ会戦で戦死をした。 気持の優しい良い人だったのに誠に残念であった。




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裏方の記・Ⅲ(前書き) [私の従軍記(インパール)]

ビルマ地域図



まえがき

 私の父の遺作である「私版誌」を自炊を兼ねながら、ブログに掲載しています。今回のⅢは、父により著作・発表済みの作品です。父の記憶により、実名で掲載されており、内容的に前2作と重なる部分も有りますが、ご容赦ください

 第2次大戦で最も悲惨な戦場と言われたインパール作戦について、戦闘部隊では無い裏方の経理室での兵役について語られております。

 現在は平和な日本で、戦争など話に聞くことの無い世代が多くなっておられると存じます。このような戦争という過ちが、二度と繰り返されないように願っております。

 これから、少しずつ掲載して行きますので、よろしくお願い申し上げます。

 神宮寺 木村 俊弘


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ガドウ(昭和二十年二月~) [私の青春]

 何時、何処で、どの様にしてイラワジ河を渡河したのか、不思議な事だが記憶に無いが、経理室で使って居た象の母子が此の大河を泳ぎ渡ったのは強烈な印象として鮮明に覚えている。生まれて未だ三ヶ月位と思うが母象の下流側を母の牙に小さな鼻を巻き付けて懸命に泳ぐ姿に、皆、声には出さなかったが、心の中でガンバレ、ガンバレと声援した。無事に泳ぎ切り、岸辺に上がって来た姿を見て、ホッとして目頭が熱くなり、思わず拍手をした。
 小さな体で、良く此の大河を泳ぎ渡ったものと感動した。しかし数日して此の母子像は、象使いと一緒に行方不明となった。日本軍の前途に見切りを付けて、故郷の村に帰ったらしい。
 私は小象が好きで毎日、暇さえ有れば小象と遊んで居たので、象が居なくなり淋しかったが、何となくホッとした気持ちになった。ガドウで経理室は勤務者の移動が有った。ブローム以来。
 永い間、寝食を共にした和田修軍曹が連隊本部事務室に移り、同じプロームで糧秣係として勤務に来た二中隊の中島富一郎軍曹、北支徐州以来連隊本部酒保係を勤めた一中隊の川西丈夫伍長、又、色々とお世話になった大津勢進上等兵等、十人位、中隊復帰した大津さんは水戸市近郊水戸市郊外、飯富村出身と聞いたが中隊に帰って間もなく、イラワジ会戦で戦死された。気持ちの優しい好青年であった。惜しい人を亡くした。此の人には無事で帰って貰いたかった。
 連隊はイラワジ会戦に入り、連夜、斬込隊が出撃し、最初の頃は戦果を上げたが、其の後は敵の防備が堅くなり、友軍の犠牲の方が多くなった。
 連隊本部はガドウを撤退する事になり経理室も高野主計さん以下の本隊は、本部と共に出発したが、逆井軍曹と私は野戦倉庫から連隊の被服を受領してから追及する様にと、高野主計さんから命令を受けた。私が再度、曹長と諍いを起こしたのを、高野主計さんが心配して、私と逆井君を曹長と同行させない様にしたらしい。
 被服は翌日受領したが運ぶ牛車が無かった。村長の家に交渉に行ったが、此の村長はタヌキで、前、出発した部隊が村の牛車を全部持って行ったので一台も無いと薄笑いをしながら惚けて相手にならない。戦闘に巻き込まれ、村民に死傷者でも出ては大変と思う村長の気持ちは分からぬでもないが、牛車が無くては私達は出発出来ない。
 隣部落に敵が入ったとの情報に慌てて村長の家に行ったが、相変わらず村長はノラリクラリと肝心の処は言葉が分からないふりをする。私も必死だった。生死の瀬戸際だったので、持っていた小銃を村長の目の前で天井に一発ぶっ放した。家の中なので物凄い音響がした。さすがのタヌキもこれにはびっくりして青くなった。すぐ村民に命じて、野原に分解して隠して置いた牛車を持ってこさせ組み立てたら七台有ったので何とか間に合わせた。
 私は小銃科出身なので小銃が無いと不安で心細くて仕方が無い。経理室の下士官連中は殆どの人が軍刀を吊っていたが私は作戦間は兵器室の宮島久太郎兵技軍曹から貰った英国製の押収小銃を持って居たのでこれが役に立った訳だが、こんな形で役に立つとは思わなかった。
 連隊本部が撤退した後を敵が追撃して居るので野戦倉庫は別の道を退がるから一緒に退がらないと、逆井君は言われたとの事だったが、本部が出発してから四、五日経っている。どっちみち、生きては追求出来そうもない。それなら、命令通り本隊の後を追う事にし様と話がまとまった。靖国神社に行くのに大勢の方が賑やかだぞと大勢の方が賑やかだぞと悲壮な覚悟を決めた。
 夕方出発前に今生の名残にと二人で酒盛りをしたが、此の時は酒の味など分からないガブ飲みだった。
 先頭の牛車に逆井君が乗り、最後尾に私が乗って出発した。もうやけくそで敵中を通ると言うのに酔った勢いで大声を張り上げて、オンチな歌を唄いながら退った。野戦倉庫は此れから出発するので、道路端に集合して居たが歩兵には、元気な兵隊が居るなあと感心した様に田中少尉が言って居たと後日聞いた。夜間敵中を通過するのに歌を唄うなどは自殺行為である。やけくそもいいとこだったな。
 マスター、マスターと起こされた。夜が明けて、何処かの部落に着いて居たが、牛車が二十台位も有ったのには驚いた。近くを通った兵隊を呼び止めて、何部隊かと聞くと師団司令部との事で、又、びっくりした。昨夜は私達が酔って寝てしまったので、ビルマ人の馭者は何処に行くか分からず困って、手近の日本軍の牛車隊の後尾に着いたらしい。それが、よりによって師団司令部とは困った事になったと思ったが、地図を持っていないのだから今更、別行動を取る事も出来なかった。仕方が無いので司令部と一緒に行動したが参謀の煩いのには閉口した。牛車の轍の音が大きいと文句を言われ、一晩中、車軸に水を掛けながら歩いた事も有った。三、四日して、いよいよ平地が通れなくなり山越えをする事になり、牛車を捨てる事になった。荷物は持って行けないので、マル秘の書類を少しづつ燃やし始めたら、参謀が飛んで来て煙が出ていると凄い剣幕で怒り付けられたので、埋めるのに何も道具が無いので仕方なく、其のままにして出発したが、今迄此の書類の為にどれ程の苦労をしたか、感無量であった。
 此の書類はインパール作戦前、連隊がコンタに居た時、作戦が長くなり、記帳もしないで居ると、後で困ると思って、私がメイクテーラの連隊の荷物集積所から持って来てカレワの連絡所に置いたのだが、此処で捨てる位なら、カレワで燃やすか、ミッタ川の渕にでも流して来れば良かったと、つくづく思った。連れて来た牛車の馭者達に金を払って分かれたが無事に帰村出来る事を念じた。
 夕方になり、久しぶりに背嚢を背負い小銃を肩にして出発、師団司令部の最後尾をトボトボとシャン高地を目指して山に入った。

弓第二百十三連隊本部
木村弘明
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ニャンベンダー(昭和二十年一月~) [私の青春]

 ニャンベンダーに在った野戦倉庫が撤退した後を連隊の経理室が引き継いだ。此処はチンドイン河沿いで、モニワの少し下流になって居た。ビルマ人の人夫が毎日、三十人位働きに来て居たが被服整理に娘達が十人位来ていたのは嬉しかった。彼女達は河の中洲に住んでいるとの事だったが、一日中娘達の嬌声に包まれての生活はつかの間の平和であったが、実に楽しかった。ふだん若い女性の声など聞いた事も無かったので娘達からマスターと声を掛けられる度にドキッとした。しかし此の天国生活も私の為にたった四、五日で終幕となった。
 此の頃は友軍機は一機も見えず、敵の観測機が我が者顔にバタバタと飛び回り、少しでも動く物が有ると、どうやって知らせるのか、地上の砲兵隊が砲撃した。
 或る日、聞きなれない音が空中でするので好奇心の強い私は逆井軍曹と二人で、村外れの共同墓地迄行って見ると、地上一〇〇米位で空中に停止した感じの飛行物体で有った。プロペラが前と後に二基、回って居たから、飛行機と思うが、或いは初期のヘリコプターかも知れない。しかしこんな形のは此の時だけで、其の後は見た事はない。胴体の真ん中の扉を開けて、敵兵が下を覗き込んで居るので癪にさわったので、石塔の陰から小銃を一発ぶっ放してやった。ヘリは直ぐ三、四〇〇米位急上昇して円筒形の爆弾を投下した。
 私達は夢中で逃げたが、これは爆弾ではなく、白円筒だったので白い煙がむくむくと上がり、其の煙を目標に地上の砲兵隊から何十発も砲撃を食らって、命からがら逃げ帰った。
 宿舎に帰って見ると、兵隊達をはじめビルマ人の人夫達も皆退避したらしく、一人残っていた大津上等兵に、今の話をすると、無茶をしないで下さい。と、怒られた。逆井君と私の姿が見えないので心配していたらしい。
 私は此の大津君には色々とお世話になった。無事で帰国して貰いたかった人だったが、後日のイラワジ会戦で戦死をされた。惜しい人を亡くした。
 突然の砲撃に驚いて自宅に逃げ帰った娘達は其のまま誰も戻って来なかった。翌日は人夫は野郎ばかりで娘さん達は一人も仕事に出て来ない。俺が余計なチョッカイを出したからと、反省したが後の祭だ。残念だったな。
 宿舎でガックリしていると、村長が呼んで居ると村人が迎えに来た。昨日の砲撃で村の共同墓地が無茶苦茶に壊されたので、それで呼び付けられるのかな、俺が原因とどうして分かったのだろうと思いながら村長の家に行くと、それは杞憂だった。村長は鬼瓦の様な顔に愛想笑いを浮かべて、ジャパンはもう負けだから、アンタは家の婿にならないかと、ぬかした。今は負けていても最後は日本の勝利を信じていた私は腹がたった。過日、ラングン出張の時兵站宿舎で見た陣中新聞の記事に田中館(?)博士がマッチ箱位の大きさで戦艦一隻を撃沈させる程の強力火薬を作ったとの事だが、それが前線に届けば今の劣勢は一挙に挽回出来ると、説明したかったが私の下手くそのビルマ語では到底話が通じないので、どうせ鬼瓦の娘だからオカチメンコだと勝手に決めて、見た事も無い娘の婿にはなれないのだと断って帰って来た。
 其の夜、又、村長の迎えが来た。行きたくなかったが、人夫とか牛車集めに村長の世話になるので、仕方なく、しぶしぶ村長の家に行くと、中州から娘と母親が来て居た。ビルマ人にしては色白の彼女は、白絹のエンジー(上衣)にピンクのロンジー(スカート)の正装で顔には日本の大工が使う様なトノコみたいな顔料で斑にお化粧して居たが鬼瓦の親父から想像も出来ない程にビックリする様な美人だった。母親似で良かった。
 俺がビルマで結婚をしたら、親、兄弟達は逃亡兵の家族として村八分にされかねない。そんな事は出来ない。
 日本軍人はビルマ人と結婚出来ない事になっていると、身振り手振りを交えて話をして、やっと了承して貰った。
 娘さんは、身に付けて居たイヤリングと指輪、金のブレスレット迄外して私に呉れると言う。私はこんな高価な品を貰う謂れが無いので辞退したが親達迄、是非受け取って呉れと言うので、何か、ビルマの仕来りでも有るのかなと思ったので頂いたが、私にはお返しする物が無い。仕方が無いので唯一の私物品の腕時計を外して上げたが、早速翌日から時計無しで不自由な思いをした。
 それにしても十数人も居た兵隊の中から何故、私に白羽の矢が立ったのだろう。不思議だった。こいつは少し甘いから婿にしても逃げ出す心配はないと、鬼瓦のやつ思ったのかな。親、兄弟でも居なければビルマの土になっても良いと思った程のトテシャンだった。
 後日、連隊がラマインに駐屯していた時、モールメンの師団司令部に連隊の三ヶ月分の前渡金、八〇〇万円を受領に行かせられた。モールメンに到着して早速時計屋に寄って、金のブレスレットを腕時計と交換した。時計は精工舎製の安物だったが半年振りで腕に付けた。
 ルビーのイヤリングとサファイヤの指輪は復員の時、オランダ兵の厳重な検査を潜り家に持ち帰ったが、生活困窮の時、白米となった。
 今は想い出だけで物的証拠は何も無い。
 しかし、従軍中、お見合いをした経験は連隊中でも私一人だけではないでしょうか?何度も言う様ですが美貌だったな。エキゾチックな顔は霧立のぼるに似ていたっけ。
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